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vol.208 モンドリアンと不動産店舗

色彩は極力おさえてあるオランダの不動産店舗(オランダ・アムステルダム市にて。以下同)
物件の写真はサイズをきっちり揃えてあり、余分な物は一切飾っていない
写真につられて自然に店内に入りやすいレイアウトだ。この店も何一つ余分な飾りなし
店内からは外が見えるが、外からは見えない。黒っぽい色ガラスを使って写真だけが目を引くようにした効果的な展示法。掲示物もよく見える位置に吊ってある
ピエット・モンドリアンの作品。Museum of Art Institute of Chicago にて(禁無断転載)
ピエット・モンドリアンの作品。Museum of Art Institute of Chicago にて(禁無断転載)

すっきりした建物が多いオランダ

垂直と水平の直線が多い。オランダでは看板や家具、建物がどこもすっきりとしている。色彩も飾りも最小限に押さえてあり、国際空港から小さな村に至るまで、簡潔なデザインが強く印象に残った。 ふと思いついて、オランダのアートをあれこれ記憶から掘り起こしてみたら、モンドリアン (Piet Mondrian) を思い出した。シカゴ美術館に何枚か作品が展示してあるが、垂直と水平の黒い線で分割され、赤、青、黄の原色が振り分けられた理知的で簡潔、どちらかと言えば冷ややかな感じがする抽象画である。隣には同世代でオランダ人のテオ・ファン・ドースブルフ (Theo van Doesburg) による白、グレイ、黒の無彩色だけの禁欲的な色使いで幾何的に分割された抽象画。モンドリアン、ドースブルフ共に100年も前の作品なのに、いずれも新鮮に感じる。

パリ、ロンドン、ニューヨーク…と移りながらアート活動

1872年オランダに生まれたモンドリアンは、アムステルダムの美術大学で教育を受けた後にピカソやブラックのキュービズム(立体)理論に強い影響を受けてパリへ出るが、第1次世界大戦が激しくなりオランダに戻る。1917年、オランダ人の建築家でありアーティストでもあったテオ・ファン・ドースブルフに出会い(前記の無彩色の画家)、デ・スティル(De Stijl) と名付けたアート雑誌を共に刊行する。1939年、第2次世界大戦が始まるとともにロンドンに避難、その後ヨーロッパの戦火を避けて米国に渡り、ニューヨークに居住、アート活動を継続してゆく。

余計なものを一切省いたデザインが、各界に強い衝撃

「デ・スティル」とは オランダ語で“スタイル”、つまり様式のことで、この雑誌は、余計な飾りを一切省いた機能的で簡潔なアートと、モダンデザインの創造・紹介に重点を置いている。雑誌編集を核にして多数の建築家やアーティストが参加、アート活動を伴って情報を世界に向けて発信してゆく。これまで分離されていたアートとデザインとの融合と工業の幕開けにふさわしい機能的、幾何的なデザイン要素を取り入れるなど、デ・スティルが提唱したこの新しい理念(functionalism) は、アートとデザイン界に強い衝撃をもたらした。 1931年にドースブルフが亡くなり、デ・スティルは自然消滅するが、その理念はオランダのみでなくドイツのバウハウス(革新的で総合的な芸術教育を行なった学校)を経由して第2次世界大戦後のアメリカへも伝播し、アートはもちろん、建築、家具、インテリアデザイン、工業デザイン、グラフィックデザインに至るまで強い影響を与えたのである。

デ・スティルの理念が取り入れられたアムステルダムの都市計画

デ・スティルの一員であり、アムルテルダムの都市計画に深くかかわった人物にコーネリアス・ファン・エーステレン (Cornelius van Eesteren)がいる。彼の都市計画にはデ・スティルが提唱した、簡潔で近代的なデザイン、垂直や水平、対角線などの構成要素が応用されたに違いない。 エーステレンは、ロッテルダムやアムステルダムの住宅やパビリオンの設計など、建築家としての実務をつみながら24歳の時にデ・スティルのグループ活動に参加。しかし、次第に自分自身のゴールを都市計画だけに絞ってゆく。そして、1930年頃からアムステルダム市都市計画局で働くようになり、その後、何と30年間という長期間に渡ってアムステルダム市で都市計画の責任者として主にアムステルダム総合拡張計画を担当したのである。 モンドリアン――デ・スティル――アムルテルダムのイメージは、都市計画家コーネリアス・ファン・エーステレンによってぴったりと収まるようだ。まるでエーステレンがジグソーパズルの最後の一片となって全体の絵が完成されたかのように…。

黄金期の名残が残る都市で、再開発事業はどう行なわれたのか?

アムステルダム市には、17世紀に商工業の発達により富を蓄え、貿易で世界を制覇した黄金時代の建物が市内に沢山残っていた。エーステレンは都市計画局で働いた30年間にそれら古い建物とどう折り合いをつけて市を開発していったのだろう? 一方、同じく大きな都市であるロッテルダム市は、第2次世界大戦で爆撃を受けて建物の大部分が焼けてしまい、戦後近代的新建築が立ち並んだ都市に生まれ変わったが、アムステルダム市はそのまま現在まで古い建物が沢山残っており、ロッテルダム市とは違って、風雅でありながらモダンな美しい景観を形作っている。 エーステレンの都市開発の計画と実施についてはさらに研究が必要で、時を待っていただきたい。


http://en.wikipedia.org/wiki/Piet_Mondrian
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/mondrian/
http://char.txa.cornell.edu/art/decart/destijl/decstijl.htm

Akemi Nakano Cohn
jackemi@rcn.com
www.akemistudio.com
www.akeminakanocohn.blogspot.com

コーン 明美
横浜生まれ。多摩美術大学デザイン学科卒業。1985年米国へ留学。ルイス・アンド・クラーク・カレッジで美術史・比較文化社会学を学ぶ。 89年クランブルック・アカデミー・オブ・アート(ミシガン州)にてファイバーアート修士課程修了。 Evanston Art Center専任講師およびアーティストとして活躍中。日米で展覧会や受注制作を行なっている。 アメリカの大衆文化と移民問題に特に関心が深い。音楽家の夫と共にシカゴなどでアパート経営もしている。 シカゴ市在住。


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