海外トピックス

2015/11/20

vol.286 スウィート ハワイ

アンの家のパーティで。全員日本人のようだが、日本語は話さない。全員アメリカ人である(ハワイ州ホノルル市。以下同)
アンの家のパーティで。全員日本人のようだが、日本語は話さない。全員アメリカ人である(ハワイ州ホノルル市。以下同)
精霊送りの行事が毎年行なわれている。参加者は地元の日系人が多い
精霊送りの行事が毎年行なわれている。参加者は地元の日系人が多い
アンのお孫さん達。日系五世にあたる
アンのお孫さん達。日系五世にあたる
以前は天空に大きく虹がかかって美しかった丘も、現在は住宅がぎっしりと建ってしまった
以前は天空に大きく虹がかかって美しかった丘も、現在は住宅がぎっしりと建ってしまった
アンの母親が経営した野菜市場周辺はいまや高層ビルのラッシュで変貌しつつある
アンの母親が経営した野菜市場周辺はいまや高層ビルのラッシュで変貌しつつある
物資の大半は輸入に頼るハワイだが、地元や隣の島で採れる数少ない野菜や果物が日曜の朝市で並ぶ
物資の大半は輸入に頼るハワイだが、地元や隣の島で採れる数少ない野菜や果物が日曜の朝市で並ぶ
アンの娘のノエラニさん(日系四世)、アン(日系三世)、孫のカイちゃん(日系五世)
アンの娘のノエラニさん(日系四世)、アン(日系三世)、孫のカイちゃん(日系五世)

 ハワイで日本人が多いのに驚いた。訂正すると、正確には「日系人」が多い。彼らは顔は日本人だが、アメリカ合衆国の教育を受けたアメリカ人である。
 
 仕事でハワイに滞在し、多くの日系人に会う機会があったのだが、ジャン、エリック、キャサリン、リズ、など、ファーストネームはアメリカ名。しかし、姓はサトウ、キヨハラ、カワカミなど日本名が圧倒的に多い。日本語は話さないが、名前の通り日本にルーツがあるのだ。
 
 すでに三世はシニアとなって、いまや日系四世五世の時代に移りつつある。1885年から1924年までに20万人以上の日本人がハワイに渡ったと言われるが、100年余を経て、日本でもなくアメリカ本土とも違う独特のハワイ文化が成立したようだ。

日米開戦でも収容されなかった日系人が

 ハワイはアメリカ合衆国の準州であったが、1941年12月の真珠湾攻撃で、日本とアメリカの間に戦いの火ぶたが切られ、第二次世界大戦が始まる。アメリカ合衆国本土の日系人達は収容所に隔離されたが、ハワイは日系人が圧倒的に多く、彼らを収容してしまったらハワイの商業が立ちゆかなくなるという事情から、一握りの日系人だけ本土に送られたそうだ。この点も、日系人がハワイに多く存在している理由だろう。
 
 前回の本コラムで紹介した「てまり」創始者の日系三世アン・アサクラさん(以下敬称略)の父親は、教育者で学校を経営していたので収容所送りを免れた。1959年にハワイはアメリカ合衆国50番目の州となる。

農場労働者として海を渡った一世たち

 ビショップミュジアムにはハワイの歴史が展示してある(www.bishopmuseum.org)。

 1800年代に宣教師がやってきて西洋文化を紹介。その後疫病が流行りハワイの人口が激減した。懸念したハワイ政府は、白人が経営するサトウキビ畑やパイナップル農場で働く低賃金労働者を求め、日本から多くの人が入植した。

 当初は収入を得て故郷に戻る3年契約だったが、1900年以降は砂糖会社や貿易商社との契約も増える。ハワイに渡ったアンの祖母は白人のメイドさんをし、ハワイで結婚した祖父は大工仕事をして一所懸命働き、家も祖父自身が建て、現在ひ孫に当たるアンの娘家族が住んでいる。

 アンの母親はホノルル市野菜卸業会社の事務員からやがて会社を任され、男優位の「やっちゃば」野菜市場でビジネスを広げて行き、アンに譲るまで社長として経営に従事した。

故郷に錦を飾るまでは…と

 当時入植した人々が住んでいた家を保存修復して現在記念館になっているが、過酷な労働に加え、物置小屋のような粗末な住まいで、ハワイに抱いてきた期待、特に女性の夢は無残に砕けたに違いない。ちりめんや刺繍入りの着物は行李に入ったまま。労働着には向かなかったからだ。

 彼らの大半が日本へ帰らなかったのは、錦を飾って帰郷出来ないのは恥、の感覚が強かったのではなかろうか。ここで生き延びていくしかない、と覚悟を決め、隣人たちと協力し合うことで「村」の共同体が築かれていく。

 その結果、出身地に違いこそあれ一世同士の絆は強く、故郷の親戚以上に親しくなった。広島県、山口県、和歌山県、福島県、新潟県出身者達が、言葉も習慣も食べ物の嗜好や作り方が違っても、次第にそれらが村の中で混じり合い、「ハワイ風」になってゆく。
 
 アンによると、彼らの中でも仲間の繕い物を引き受けたり、おむすびを作って売ったりと、寝る間を惜しんで働き、少しずつお金を貯めて店を持って独立してゆく人も少なくなかったという。

三世以降は混血が進む

 一世、二世は日本人としての意識が強く、日本人同士で結婚したが、三世になると親が反対しても白人など異人種と結婚する人も出てきた。

 三世のアンは高校卒業後、ハワイを出てイリノイ大学芸術学部を卒業、アメリカ人化学者と結婚してハワイに戻り、離婚したあと娘を2人育て、母親の野菜卸業を手伝う。「てまり」にも尽力し、その後30数年間関わっている。

 四世になると、「私は日本人が50%、中国人25%、スペイン人12.5%、フィリピン人12.5%よ。」と言う生徒がいたり…。沢山の国からの入植者達が多いためか、若い人々には混血が多くなってきている。

日系人社会に根強く残る伝統的慣習

 新しくハワイに住もうとやってきた人々にとっては“スィートハワイ”ではないかもしれない。食品や生活必需品の80%は本土からの輸入だし、ハワイ州は全米で最も住宅価格が高い州。生活費がかかる割には収入は本土並みなので、会社持ちか超お金持ちでない限り日々の暮らしは厳しい。

 また、長年築かれた日系人社会のネットワークが張り巡らされ、無視するには余りにも強固。だから若い日系四世五世達の中でも、数代に渡って受け継がれた日系人社会の慣習を受け入れることができれば、スィートハワイとなる可能性はあろう。例えばお年寄りを敬ったり、手土産を持って行く、お返しをする、お盆や正月、墓参りなどの行事をきっちりと守るなど。

 しかし、日本語をしゃべらないアメリカ人としては難しい。彼らは、血のつながりはなくても目上の人を「アンティ誰それ」と尊敬を込めて呼ぶが、アンの娘(四世)は筆者を「アンティ・アケミ」と呼ぶよう五世の子供達に躾けていた。アメリカ人のご主人にも日系人との付き合い方を事あるごとに指導(?)しているようだ。

 ハワイの日系三世達の多くは定住するか、本土へ進学あるいは仕事をしても、年をとった親の世話をするためにハワイに戻ってくる。施設に親を入れるのは恥、という伝統的な日本人的な感覚がアメリカ人ではあっても三世には未だに残っているのだろうか。

 アンから話を聞くと、日本人がハワイに移民として入植し、どのようにアメリカ社会に根を下ろしてきたか、その紆余曲折が見えてくるが、古風な日本がハワイに温存されているのは不思議でもあり、心温まる光景でもあった。


参考資料
Kawakami, Barbara F. “Japanese Immigrant Clothing in Hawaii 1885-1941” Honolulu Hawaii: University of Hawaii Press. 1993.
en.wikipedia.org/wiki/History_of_Hawaii


Akemi Nakano Cohn
jackemi@rcn.com
www.akemistudio.com
www.akeminakanocohn.blogspot.com

明美コーン

コーン 明美
横浜生まれ。多摩美術大学デザイン学科卒業。1985年米国へ留学。ルイス・アンド・クラーク・カレッジで美術史・比較文化社会学を学ぶ。 89年クランブルック・アカデミー・オブ・アート(ミシガン州)にてファイバーアート修士課程修了。 Evanston Art Center専任講師およびアーティストとして活躍中。日米で展覧会や受注制作を行なっている。 アメリカの大衆文化と移民問題に特に関心が深い。音楽家の夫と共にシカゴなどでアパート経営もしている。 シカゴ市在住。

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