中心部がまちびらき、復興に向かう女川町
東日本大震災から5年目の春を迎えた。被災地の復興は、なかなかペースが上がらないのが現実だが、関係者の努力で着実に復興へと歩んでいる自治体も多い。想像を絶する津波被害を受けた宮城県牡鹿郡女川町も、その一つだ。津波ですべてが流されたJR石巻線「女川」駅とその周辺に広がるまちの中心部の基盤整備を4年がかりで終え、ついに今年3月まちびらきにこぎつけた。復興の喜びに沸いたまちびらき当日の女川町を歩いた。









◆UR・JRと連携し、ハイスピードで市街地復興
「日本全国や海外からさまざまなご支援をいただき、今日のまちびらきを迎えることができた。多くの皆さまのご支援に感謝したい」――3月21日、新生JR「女川」駅前で行なわれたまちびらき式典で、女川町長の須田善明氏は感激の笑みを浮かべ、時折涙をにじませながら謝辞を述べた。また、東日本旅客鉄道(株)代表取締役副社長の深澤祐二氏は「震災当日、ここから見える墓地(被災前の「女川」駅とは標高差が15mはある)に列車が打ち上げられているのを見て、本当に復旧できるか絶望的になったが、こうして無事運転を再開することができた。今後も、地域の皆さまの足として、復興に一緒になって取り組んでいきたい」と決意を語った。
女川町は、今回の震災で、未曽有の津波被害を受けたまちの代表格だ。まちは最大高さ14.8mの津波に襲われ、320haが浸水。住宅約3,900棟が損害を受けた。死者・行方不明者数は837名。まちの中心部であるJR「女川」駅とその周辺(女川浜エリア)は、商店・住宅すべてが津波に呑まれ、JR石巻線は震災直後から不通。2年前に、ようやく1つ手前の浦宿駅まで運行再開したものの、女川駅周辺の基盤整備のため、バス代行が続いていた。
同町は、復興のペースを上げるため積極的に動いた。2012年、UR都市機構とパートナーシップ協定を結び、「CM(コンストラクション・マネジメント)方式」を使った復興まちづくり事業を他の自治体に先んじて始動した。CM方式は、段階的に進められる各種工事をひとまとめにして、設計・施工・マネジメントをまとめて発注するシステム。コンストラクションマネージャーを民間に委ねることで、工期の短縮・資材や職人の確保・コストの圧縮を実現する。
JR東日本とも、12年2月に石巻線復旧に係る覚書を締結。駅周辺の中心市街地の復興土地区画整理事業を始動し、3年余りで、中心部の基盤整備を完了した。まちの中心部が“まるごと消え去った”ゼロからの復興としては、異例のスピードだ。
◆駅は7mかさ上げ。商店街も順次再興
今回、まちびらきが行なわれたのは、「女川」駅周辺の19.4ha。JR石巻線は浦宿~女川間2.3kmが運行を再開した。
再建した「女川」駅は、内陸寄りに約200m移され、地盤を約7mかさ上げし、その上に新駅舎を建設した。駅舎は地上3階建て、延床面積899平方メートル。前駅舎時代から駅に隣接し、町民のコミュニティ空間だった温浴施設「ゆぽっぽ」も、新駅舎内に再建した。建物は、町の鳥であるウミネコが空に飛び立つイメージ。木材がふんだんに使われている。石巻線は、震災前同様、1日11往復が発着する。
「女川」駅前には、新たな道路が敷かれ、今にでも建物が建てられるよう基盤整備も終了している。駅から海に向かってはプロムナードが伸び、それを取り囲むようにテナント型商店街が開設される。3月28日には、NPO法人が運営する「フューチャーセンター」がオープン。町内外の人々が集まる各種イベントや、町内で起業を目指す人たちのサポート等を行なう。水産業体験館や地域交流センター、物産センターも、15年度中に順次オープンする。
今後は、駅を取り囲むように公営団地や新庁舎、子育て支援センターなどが15~16年度にかけ整備され、駅を中心に都市機能がまとめられた「コンパクトシティ」となっていく。また、新たなまちでは、公が主体ではなく、民間企業が積極的に運営に参画するスタイルを採っている。
◆工事ペースアップ、人口減少、新産業育成…課題は山積
未曽有の被害から4年、まちの中心部は蘇りつつあるが、まだまだ課題も少なくはない。「まだ4年ではなく、もう4年という事実を認識しなくてはならない。本格復興にはまだ数年はかかる。今日がスタートライン。明日からまた復興に向け頑張る」と語る須田町長の言葉には、何の誇張もない復興の真実がある。
ハイスピードで市街地復興を遂げた同町だが、ようやく基盤整備が終わった中心市街地の面積は、復興事業全体の計画面積(約226ha)の1割にも満たない。復興土地区画整理事業による盛り土量は約700万平方メートルだが、まちびらきまでに完了したのは約260平方メートルで4割弱だ。
住宅地の高台移転に向けた町内各所の造成工事は、これからピークを迎える。同町では、14年3月に総戸数200戸という大型の災害公営住宅を完成させているが、高台団地宅地の供給は、15~16年度となる。現段階では、災害公営住宅の希望者に対し、25%しか供給できておらず、仮設住宅で不自由な生活を強いられる町民も数多い。「住民にはまだまだ苦労をかける」と須田町長も顔を曇らせる。
減り続ける人口を食い留め、まちに新たな産業、魅力を生み出すことも課題だ。同町の人口は、震災後4年間で3割余り減り、約7,000人にまで落ち込んだ。主要な産業である水産加工業も、大打撃を受けた。中心市街地を民間主体の復興計画とし、公的施設は最低限にとどめているのも、「復興の主役は“民”」という同町の考え方を示すものだ。
須田町長は「復興とは、まちを昔の姿に戻すことではない。まちに、新たな価値をもたらすことだ。それが、全国各地からのご支援や、震災で亡くなられた方々の無念に応えること」と語る。「新たに生み出される土地は、競争力が高い。それらの土地の利活用には、行政はあまり口を挟まない。民間企業にどんどんアイディアを出してもらい、チャレンジしていただきたい」(同氏)
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まちびらきイベントには、2,000名を超える町民が参加したという。運行を再開し、石巻へと向かう列車を、多くの町民が旗を振って見送った。だが、その「女川」駅を見下ろす丘の上には、いつもと変わらぬ日常を送る仮設住宅暮らしの人々もいた。どちらの町民も、町長と同じく「今日がスタートライン」と思っていたに違いない。(J)
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