2022年に半導体製造の世界トップ企業・台湾積体電路製造股份有限公司(TSMC)の工場が進出して以来、不動産市場の活況が続いている熊本県菊池郡菊陽町およびその周辺地域。もともと全国トップレベルの人口増加率を誇っていた菊陽町だったが、TSMCの進出によって拍車がかかり、隣接する大津町や合志市などにも影響が及んでいる。地元で不動産業を営む各社は現在の市況をどう見ているのか。地元の事業者に話を聞いた。
◆顕著な地価・家賃の上昇
TSMCの進出により、熊本県の菊陽町周辺の地価が大きな影響を受けている。2024年の公示地価を、21年と比べた際の上昇率は熊本県平均が9.6%上昇なのに対して、菊陽町は40.8%上昇、大津町が20.4%上昇、合志市が21.1%上昇と大きな上昇幅を示している。
そうした中、不動産情報サービスのアットホーム(株)が、TSMCによる進出発表前の2021年1~3月期と、24年1~3月期の菊陽町周辺エリア(菊陽町、大津町、合志市)の家賃動向を調べたところ、いずれの地域・物件種別でも大きく上昇していることが分かった。
菊陽町では、シングル向け(30平方メートル以下)の賃貸マンションが4万9,900円(23年1~3月期比23.6%・9,522円上昇)、ファミリー向けが8万1,429円(同23.1%・15,283円上昇)と、2割超の上昇となっている。特にシングル向けマンションは大津町で同36.7%上昇、合志市で同16.0%上昇と周辺地域に大きな影響を与えていると言える。なお、この期間での熊本市内のシングル向けマンションの家賃変動率は0.8%の上昇であることから、TSMCの進出効果が如実に表れていると言えよう。
◆賃貸市場は法人契約が7割占める
地元の不動産事業者はこうした状況をどのように見ているのか。(株)コスギ不動産(熊本市中央区)のグループ会社で賃貸仲介を手掛ける(株)コスギ不動産リーシングの光の森支店店長・田中弘仁氏は、現在の市況について「TSMC以外にも半導体産業が活発なエリアなので、法人契約が市場を引っ張っています。賃貸借契約のうち法人:個人の割合は例年5:5程度で推移していますが、この数年徐々に高まってきていて、今年は法人契約が7割程度となっています」と、半導体関連企業による法人契約が地域の市場をけん引している様子を説明した。法人が好む新築~築10年以下の物件にはほとんど空きはないという。
賃料水準についても強含み。以前は同エリアのワンルームの賃料は4万円台前半から半ばだったが、TSMCの進出が決まって以降は5万円台で推移。中には退去後に家賃を2万円上げて成約した物件もあるという。「新築ワンルームは5万5,000円以上となっています。需要があることを見越した設定でもありますが、建築費の高騰と相まって賃料上昇が顕著です。ただし、それでも早期に法人契約で決まっていきます」(田中氏)。
◆事業用地の問い合わせ「数えきれない」
売買市場も活発だ。コスギ不動産グループで売買仲介を手掛ける(株)コスギ不動産リアルティ光の森支店・売買事業部売買3課課長の杉野佳範氏は「特に菊陽町・合志市は住みやすさ・子育てのしやすさといった理由で安定した需要があり、以前から価格が上昇基調で推移していましたが、TSMCの進出でそれに拍車がかかりました。事業用・居住用ともに媒介件数も査定件数も大きく増加しています」(杉野氏)。
菊陽町の中心地で、00年代に開発がはじまった光の森エリアでは、かつて60坪で取引価格1,200万円前後だった宅地が今は1,500万円以上。隣接する大津町は1,000万円以下が相場だったが、現在は1,500万円前後で取引されている。一方、事業用に関しては、もともと坪20万円程度だった土地が2~3倍にまで跳ね上がっているという。事業用地に関しては需要も活発で、反響が「数えきれないぐらい多く、対応しきれない。かなり面積の広い工場用地などに関しては問い合わせを受けても断らざるを得ない状況だ」(杉野氏)。
また、TSMCの工場近くに店舗を構えて事業用・居住用の不動産仲介を展開する(株)あゆみ不動産(熊本県菊池郡大津町)の代表取締役社長・松永智之氏はこう語る。「工場の進出が決まった時点でグイっと価格が上昇し、その状況が継続、やや上昇基調で推移しています」。工場を求める企業による活発な需要を背景に、土地の価格は1.5~2倍にアップした。取引件数も同程度に増加しています。
需要の内容も変化してきた。「進出決定前は、300~1,000坪程度の要望が多かったのですが、今は年に1件あるかないかという頻度だった『5,000~1万坪』という大規模な工場用地のオーダーが頻繁に入ってきています。問い合わせの数は数えきれないほど。数十人の地権者をまとめなければならないケースもあり、当社のような小規模企業では多くの件数はやりきれない。どんなにいい話があったとしても、年に1件が限界としています」(松永氏)。
◆既存住宅市場は外国人がけん引
既存住宅市場は、価格高騰により「売り時」を迎えているという。台湾をはじめとした外国人からの購入需要が高い。特に戸建ては投資用として購入し、これまでの相場になかった賃料で外国人向けに貸し出すケースが相次いでいるそうだ。「台湾、韓国、シンガポールなど、外国人投資家の需要が活発です。だいたい3,000万円で購入して、賃料20万~25万円ほどで貸し出されます」(松永氏)。前出・杉野氏も「高値で購入されますので、それに地域の取引価格が引っ張られる側面もあります。光の森以外にも、大津町の美咲野というエリアでは、5年ほど前に1,500万円ほどで取引された既存住宅が今は3,000万円ほど。熊本県内では既存住宅の価格が購入時よりアップして取引されるケースはなかったのですが、この美咲野や菊陽町の光の森エリアではそうした例がみられるようになっています」と話す。
◆「地元客離れ」の懸念も
このような活況の一方で、懸念材料も出てきている。前出・コスギ不動産リーシングの田中氏は「賃料高騰により、既存のお客さまの『菊陽離れ』を危惧しています。菊陽町内で住み替えをしようにも、同程度の家賃で賃貸住宅を探すと駅距離や築年・面積などの条件が大きく悪化します。そのため、引っ越しのタイミングで菊陽を離れるというケースが多いのです」と話す。
そのため、夏から秋にかけては個人契約の割合が大きく減った。「今年8月は季節的なものがあるとはいえ、件数は多かったものの個人契約はわずか1割程度にとどまりました。法人契約は築浅の物件に集中しますので、いままですぐに決まっていた築10~15年程度の物件の契約に時間がかかるようになってきており、オーナーからも不安視する声が出てきました」(田中氏)と、特に築10年を境にした二極化懸念があるという。「供給も増加傾向で、難しい市場と言わざるを得ません。また、法人契約には一斉退去のリスクもある。当社でも、慎重に市場を見極めながら、オーナーに賃料設定などを提案しています」(田中氏)。
◆価格高騰で購入意欲減退
あゆみ不動産の松永氏は、「住宅市場では、かつては2000万円台で購入できた物件が今は3,000万~4,000万円台になってきています。そのため、一般のお客さまが購入を躊躇する傾向が出てきました。まだ勢いがあるので、お客さまが目に見えて引いてきているというわけではないですが、今後のことを考えると少し心配な傾向です」とやはり価格高騰による影響が地元客の購入意欲を減退させているという。
また外国人需要が強いことで、地元の事業者にはありがたくないこともある。台湾人が購入して賃貸する戸建住宅は入居者もTSMC関連の台湾人。入居者募集や管理その他の業務を地元の不動産会社が受託することもなく、台湾人のコミュニティ内ですべて完結してしまう。日本の不動産会社がかかわるのは物件取得の時だけ。「収益機会はその1回だけ。再売却する時に仲介することができるかが勝負になりますが……」(松永氏)。
とはいうものの、コスギ不動産リアルティの杉野氏は「これから交通網が整備されるので、ますます需要は活発化するでしょう」と、市場はまだまだ活況が続くとみている。また、松永氏は「いまはまだ、TSMCの第二工場が12月に着工するという段階で、エリアの景色はそんなに変わっていない。周囲に賃貸マンションが少しずつ整備されてきている段階で、ホテルなども整備され始めている状況です。第二工場が完成して、そこから果たしてさらにもう一段階上がるのか、上昇が落ち着くのか。価格動向は慎重に見なければなりませんが、需要自体はあと10年は活況が続くと予想できます」と語る。
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活況が続いてはいるものの、地元事業者の目線は冷静だ。多くの会社が、「無理をせず、できる範囲で案件を受ける」というスタンスで、人材採用も最低限の限られた人数にとどめている。今回取材した会社からは「自分たちの手に余る案件は東京の大手に任せておけばよい」という声も。それだけ、需要が潤沢にあり、余裕があるということであろう。
工場周辺エリアはこれからの発展が期待できる。いまだ、TSMC工場のある産業団地への通勤の足は自家用車が主体で、バスも朝夕だけだという。それも、これからより便利になっていく。現在の過剰な価格上昇が落ち着けば、地元の需要も戻ってくる可能性がある。産業の集積によってインフラが整備され、それによって人が集まり、生活の場ができていくという、都市の発展のお手本のような地域として、今後の動向が楽しみなエリアでもある。(晋)