8月20日から、ニューヨークの地下鉄運賃が値上がりし、一回$2.75から$2.90になった。どこまで乗っても均一料金なので、長距離になるほどお得だが一駅乗っても$2.90(およそ420円)では、気軽に利用することもできなくなった。
マンハッタンの生活経費の高さは全米トップだが、値上がりしているのは運賃ばかりではない。不動産ニュースメディア、「コマーシャルオブサーバー」によると、7月のマンハッタンの賃貸物件の平均が最高値を更新。なんと月$5588、日本円にしておよそ80万円になったという。
部屋数別にいうと日本でいう1LDKにあたるStudioが$3200,One Bedroom(寝室、リビング、キッチン、バスルーム各1)が$4295,Two Bedroomになると$5200が平均価格。プールやフィットネスジムを兼ね備えた高級物件に限るなら、平均価格はこれの倍以上になる。ニューヨークの物価高、恐るべしだ。
どのような物件が人気なのか
筆者は1980年にニューヨークに引っ越した。友人と借りたOne Bedroomはグリニッジビレッジの中心にあり、学生には少々贅沢な物件だったが当時の家賃は月$800。結局ここは1年で引っ越したが、今なら$4000以下ということはないだろう。この42年間で5倍以上に値上がりしたことになる。
それにしてもいくら世界経済の中心地ニューヨークとはいえ、月80万の家賃を払える人がどれだけいるのか。どのような人たちが、どのような物件を借りているのだろうか。マンハッタンの不動産会社R New York / R Floridaに勤務するエージェントのスティーヴィン・ヘルド氏が、筆者の取材に応じてくれた。
「マンハッタンの賃貸物件は常に不足気味の傾向にあります。中にはオーナーが賃貸のレートを下げないために空き部屋が出ても申告しないケースもある。でも条件の良い物件はすぐに借り手が見つかります」
賃貸高騰の理由の一つは、現在アメリカの住宅ローンの金利が上がっているためもある。この記事を執筆の2023年8月末現在、30年固定住宅ローンの金利が7%を超え、21年ぶりの高利率となった。
「この先どうなるのか不透明なため、不動産の購入を控えてとりあえず賃貸にしようという人たちも多いです」と同氏。
人々がニューヨークに戻ってきた理由
2020年春に新コロナウィールスの感染が拡大したニューヨークは、2022年までの2年間で40万人も人口が減ったと言われている。オフィスが閉鎖され、自宅でリモート勤務となった人々は家賃が高いマンハッタンを脱出し、郊外、州外へ。ニューヨーク近郊の一軒家の価格が高騰した。だがここに来て、再びマンハッタンに人の流れが戻りつつあるという。
「パンデミックで引っ越した人々の中には、ニューヨークがどれほど便利なところだったのかを再確認した人たちも多かったと思う。うちではフロリダの物件も扱っていますが、ニューヨークからフロリダに引っ越して、しばらくしてから後悔した人たちも少なからずいたと思います」とヘルド氏。
その主な理由は交通の便である。アメリカでは大手の石油企業のロビー活動が、高速電車など公共交通機関の開発を阻んできた。そのためいつまでたっても車社会の現状は変わらず、郊外で暮らすなら車は一家に一台ではなく、家族一人に一台が当たり前だ。子供が運転免許を取れる年齢に達したら、親が買い与える。通勤、通学はもちろん、ちょっとした日常の買い物でも運転は不可欠だからだ。だがニューヨークは自家用車がなくても暮らしていける、アメリカでは数少ない場所なのである。
年収は家賃の40倍が基準
だがこれから新たに物件を借りるとなると相当な高収入が必要だ。ちなみに家賃$5000ドルの物件を借りるためには、どのくらいの年収が必要なのか。
「通常は月の家賃の40倍の収入がスタンダードです」(同氏)。
契約を交わすためにもちろんクレジットチェック(資産、年収、過去のローン返済の記録などの調査)が入るが、月5000ドルの物件を借りるためには20万ドル(およそ2,900万円)の年収が必要とされるのだという。世の中、お金はあるところにはあるのだとため息が出る数値である。
どのような物件が人気があるのか。
同氏によれば「パンデミックの後、自宅からリモートで仕事をする人々が増えた。そのためちょっと広めの物件が人気があります。通常なら1ベッドルームを借りるところが、2ベッドルームを借りて一部屋をホームオフィスにする、というように」と言う。
もちろん経済的な余裕があってこその、ホームオフィスである。どのような職種の人が多いのだろうか。「最近ではテック関係、またファイナンシャル関係者などが比較的多いです」高給取りはハイテク業界、金融業界というのは、世界共通なのだろう。
もっとも人気のある区域は
ヘルド氏によるとマンハッタン内でも特に人気の区域は、アッパーウエストサイドだという。セントラルパークの西側に広がるこの区域にはリンカーンセンターや自然史博物館などの文化施設があり、高層ビルとタウンハウスと呼ばれる4、5階建ての住宅が混ざり合っている。オノ・ヨーコ氏がジョン・レノンと暮らしていた有名な高級マンション、ダコタ・ハウスもこのアッパーウエストサイドにある。
「人々は何でも徒歩圏内、という環境を求めている。アッパーウエストなら買い物も外食も歩いて行けるし、同時にリバーサイドパークとセントラルパークの二つの大きな公園に挟まれているのも人気の理由だと思います」(同氏)。
比較的治安が良く、アベニュー沿いにはレストランやバーが軒を並べる。緑の多い大きな公園があり、大手スーパーもあって、賑わいと静けさのバランスがちょうど良い。また近代的なビルから古いブラウンストーンビル(5,6階建ての住居ビル)まで選択幅が広いため、ミッドタウンなどの中心街に比べて割高ではないことも人気の理由の一つだろう。地下鉄の乗車料金も上がった現在、必要なものが全て徒歩圏内というのは大きな魅力なのだろう。
裕福な親を持つ学生たちの需要
このアッパーウエストサイドをさらに北上すると、コロンビア大学のキャンパスがある。
ヘルド氏によれば「7月に家賃が高騰した理由の一つは、夏は学生が移動してくる時期でもあるため。大学生の子供を持つ裕福な親は、子供を寮に入れずにアパートメントを借りさせて、自分がニューヨークに行った際には滞在できるようにするという人もいます」とのこと。
マンハッタンにはアイビーリーグのコロンビア大学、グリニッジビレッジを中心に数多くのキャンパスビルを所有するニューヨーク大学などの総合大学がある。コロンビア大学の1年間の授業料はおよそ6万5千ドル(約942万円)、ニューヨーク大学で6万ドル(870万円)ほどかかる。奨学金や学生ローンに頼らずに、こうしたレベルの高い私大に子供を通わせることができるのは、ごく一部のエリート層に限られる。彼らはニューヨークの不動産業者にとっても、良い顧客であるのだという。
こうした総合大学以外にも、多くの美術大学、ロウスクール、コミュニティカレッジ、専門学校などがあり、ニューヨークは学生の街でもある。これらの学生のほとんどはクイーンズやブルックリンなど、マンハッタンよりも家賃の安い区域でアパートメントを借り、友人らとシェアをするというスタイルがごく一般的だ。
成人の間でも増えるシェア
もちろんニューヨーク市民の全てが高収入所得者ではない。一般庶民はどうやって生活しているのかと不思議に思われるかもしれない。
「家賃の高騰で、ニューヨークではシェアをするのは学生だけではなくなりました。社会人の間でも、ルームメイトがいるという状況が珍しくなくなりつつあります」とヘルド氏。
日本の一般のアパート、マンションの間取りに比べると、ニューヨークのアパートメントは比較的広い。特に今ほど土地の価格が高騰する前に建てられた物件は、ベッドルーム一つずつに専用のバスルームがついているというゆとりのある造りも少なくない。
例えば2 Bedroom, 2 and half bathroomと書かれている物件は、寝室2つにそれぞれシャワー/バスタブ付きフルサイズバスルームがついており、加えてリビングルームにハーフバスルーム(トイレと洗面台のみ)がある作りになっている。浴室とトイレを共用する必要がないというのも、あまり抵抗なく他人とシェアをできる理由の一つだろう。
筆者の友人の弁護士の女性は、マンハッタンではなくブルックリンの一等地に住んでいるが現在ルームメイトを募集中。広い2ベッドルームの1寝室を、1500ドルほどで貸したいという。シェアで1500ドルというのは割高に感じるが、ワンルームstudioでも一人で新たに借りると$3000以上であることを考えると、大幅な節約になることは間違いない。
レントコントロールというシステム
また筆者のように長年この街に住んでいる住民のほとんどは、市や州政府の住宅規制法によって家賃値上げの上限が定められている「レントコントロール」建物に住んでいる。ニューヨーク市内には、年収の上限が定められている低所得者用、ミドルインカムと呼ばれる中層階級向けのレントコントロールビルがかなりの割合で点在している。
こうしたアパートメントの賃貸契約をいったん手にした住民は、よほどの事情がない限り引っ越すことはない。住民の方からリース契約を終了しない限り、家主は「レントコントロール」の条件を破棄することはできないのである。中にはマンハッタンの一等地のアパートメントを、二束三文の家賃で何十年も住んでいるラッキーなニューヨーカーもいる。もちろん家主側も修理の要請を無視するなど、あの手この手で追いだしにかかり、法的トラブルに発展してニュースになることも日常茶飯事だ。
家賃の高騰はピークに達した?
筆者の友人は、10年ほど前にブルックリンからニューヨーク州の北部に土地付きの家を買って引っ越した。その時に友人の夫が、こう口にしたそうだ。
「ニューヨーク市を一度出たら、もう戻って来ることは出来ない。それはわかっているよね?」高収入所得者ではない彼らにとって、いったん賃貸契約を打ち切ったらもう戻る場所はない。古くからいる住民の権利は守られている反面、新たに引っ越してくる住民は相当な経済力がないと入り込めないというのが、今のニューヨークの現実なのだ。
だが世界中から富が集まるさすがのニューヨークも、この家賃高騰で新しい契約数はペースが落ちているという。
「7月の平均値は、ピークに達したのではと言われています。」(ヘルド氏)。
これから秋、冬にかけてはあまり人々が移動する時期ではないこともあり、しばらく停滞するだろうと予想されている。だがいずれは上がることはあっても、下がることはないニューヨークの不動産価格。将来どこまでいくのだろうか。
執筆:ニューヨーク在住 ノンフィクションライター 田村明子
(ニューヨークの物件に興味がある人の問い合わせは、Steve Held Steve@heldandco.com/Social media @stevesnyc @heldandco)