どん底からのアメリカンドリームストーリー
現在、アメリカ国内に多くのホテルを所有し、不動産開発や映画・映像制作、コンテンツクリエーション、スタートアップへのエンジェル投資、M&A事業等々、多様なビジネスを展開、随所で輝かしいスポットライトを浴びるPareshkumar Patel(以下、PK)氏(オアシスエンタープライズ 創業者、CEO)は、インド・グジャラート州の貧しい家庭に生まれ、十代で人身売買被害にあったという不幸な過去を持つ。
アメリカに渡って約24年。現在40代の同氏がこれまでどのような半生を歩んできたのか、どん底生活から事業家として成功をするまでの道のりはどのようなものだったのか。そして今、新たにチャレンジしていることとは。
来日したのを機に話を聞いた。
騙されて船に乗せられ、コンテナに押し込められ…
――人身売買(人身取引)というのは世界各地でいまだ多いそうですね。ILO(国際労働機関)によれば、世界で4000万人余りが被害にあっており、特にアジア地域の犠牲者が半分以上とか。子供や女性などが誘拐されたり騙されて連れ去られ、暴力や性被害にあったり過酷な労働をさせられたり、臓器を売られるなどしているケースが多いと聞きました。
PKさんはどういう状況だったんですか?
「14歳の頃、私の両親にうまい話を持ち掛け、すり寄ってきた闇の組織(マフィア)に家族が騙され人身売買の犠牲になったんです。貧しい家庭だったので、子供がいい生活ができるとか、いい教育が受けられるとか、生活資金も差し上げます、仕事も得られます、幸せになります、明るい未来があるなどと言われたのを信じた親が、将来への希望を信じて私を送り出したつもりだったようです。
アジアの途上国などにはいまだにそのような被害は多く、スラム地区の貧しい家庭などは口減らしの意味もあって、そういう話に飛びついてしまう人も多い」
――PKさんの場合、その後はどうなりましたか?
「ムンバイのスラム街から南インドに連れて行かれ、そこから船に載せられてスリランカ、ドイツ、スイス、カナダ、そしてアメリカへと4年近く連れ回されました。その間3年ほどは窓もない暗いコンテナの中に押し込められて港から港へと移動していました。20~25人ほどの子供たちが一緒で、騙されたと分かりましたが、両親と連絡を取ることはできず、港に着くたびに何人かが買われて連れて行かれ、また何人かが加わるという感じでした。
コンテナの中では1日1回パンが差し入れられる程度で、空腹と、いつ自分が連れ出されるかという恐怖の毎日でした。今でも思い出すのは辛いです。
後で聞いたことですが、両親は騙されたと知り、必死で探しましたが、国際的な組織の犯罪で、一度連れ去られるともうそれを追うことはできなかったんです」
住み込みでホテル掃除。眠るのは朝、空いた部屋で
――過酷な状況でしたね。そこからどうやって抜け出した?
「各地を転々とした挙句、最終的にアメリカの沿岸警備隊に発見され、人身売買組織から助け出されたのです。
アメリカ入国手続きをした後、ほかの子供たちと一緒にバスでニューヨークのグランドセントラルステーションに連れて行かれ、そこに置き去り状態になりました。
英語は話せなかったので、近くのレストランで清掃や皿洗いの仕事をさせてもらったりしましたが、貧困生活がしばらく続きました。自分の手を噛んで空腹を紛らわしたこともあります。
そんな状況の中、近くに住んでいたインド系移民がホテルの清掃の仕事をやらないかと声をかけてくれたのです」
――そしてカリフォルニアへ?
「はい。カリフォルニア州のレディングという町にある家族経営の小さなホテルに住み込みで働くことになりました。昼は客室やトイレの清掃、ハウスキーピング、メンテナンス手入れ等々、夜はフロントとデスク業務をやっていました」
――過重労働で寝る間もないですね
「朝一番早くチェックアウトした客室に行って数時間仮眠し、そこでシャワーを浴びてから清掃や客室業務という毎日でした。食事つきだったので、生活費はかかりませんでした。当時は難民扱いで米国民としてのIDもなく銀行口座も持っていなかったので、月300ドルの給料はほとんどホテルの支配人に貯金してもらっていました。
そこで数カ月働いた後、アラメダ市のホテルに移りました。そこは近くにカレッジがあり、初めて学校にも通えるようになり英語もきちんと学びました。カリフォルニア州はIDをもたない外国人でも学校教育が受けられるのです。学校に行くのは夢でしたので、嬉しかったです。一生懸命勉強しました。
英語力、学力とともにホテルの実務からも知識や経験が身についたことで、マネージャー、リージョナルマネージャ―と、役割も給料も徐々に上がりました。でも心の中にはこのままでいいのか、こんなに一生懸命働いても何も自分のものになっていないという思いが徐々に募っていました。
また、そのころには、インドにいる家族とも連絡が取れるようになっていたのですが、父親が具合が悪いと知っても渡航費用どころかパスポートもないため国に帰ることすらできないことがとても悲しく、また苛立ちました」
「神様。いつかこのホテルが私のものになりますように!」
――初のホテル投資は意外なきっかけだったとか?
「はい、カレッジからサンフランシスコ州立大に進んだ頃、働いていたホテルに毎日のように来る男性がいたんです。彼は近くにある別のホテルの支配人で、そこが満室の時などはうちのホテルに送客してくれるなどお互い親しい間柄でした。そして実は彼はうちのホテルの女性従業員と昼間客室で不倫をしていた!(笑)
で、彼は、私がホテルに住み込んでいるので、オーナーの息子かなんかだと勝手に思い込んでいたようです。不倫という後ろめたさのせいかどうかわかりませんが、ある時私を彼のホテルに招いてくれました。バスで30分くらいの場所にあり、行ってみると、ウォーターフロントの素晴らしい環境に囲まれ、部屋の窓からはサンゴ礁と青い海、空が見渡せるという立地で、なぜか瞬間的に、このホテルが欲しい!と。運命的な出会いを感じました。
そして思わず、天を仰いで『神様、神様、このホテルが私のものになりますように!』と大声で叫んでいたんです。
で、その姿を見ていた件の支配人が、じゃあ、ここのオーナーに話してみれば? 紹介しようか?と、ホテルのオフィスの電話番号をくれたんです」
ーーえ? そんなことがあるんですか?
「不思議なことに、あったんです。彼から見れば私はホテルオーナーの息子ですから(笑)
最初はそんな話は見当違いかと思って放念していたんですが、時間が経つうちにだんだんその気になってくる自分に気づきました。とはいえ、ホテルの買い方なんて分かりませんから、ネットで検索しました。LOI(Letter of Intent=意向表明書)の書き方も知らなかったので、テンプレートを丸写しにして自分の署名だけし、購入価格については、紹介してくれた支配人に相談して、100室あるので、1室5万ドルなら500万ドルかな、といったような具合で…。今から思えば無茶苦茶ですが、とにかくそれで準備を整えて、ある日勤務先に2時間休みをもらい、スラックスにワイシャツ、クリップオンネクタイといった出で立ちでバスに乗って出かけました
そうしたら、ノーアポでしたがオーナーR氏に運良く会うことができたんです。彼は背の高い白人で、アメリカ大統領や、ハリウッドの著名人等と一緒に写っている写真がオフィスの壁一面に飾られているような、地域ではちょっとした有名事業家でした。
何か用かね?と言われたので、LOIを差出し『あ、あの~、このホテルを500万ドルで売ってください。頭金は2万5,000ドル用意します』と緊張しながら申し出ました。
当然、端からまともに受け合ってくれませんでしたが(笑)」
ーーそれはそうですよね(笑)
「R氏は何を言っているの?とあきれた様子で、ホテルは売りに出しているわけでもないし、どう見てもこちらは子供だし。帰れと。
その日は引き下がりましたが、心には火が付いた。あきらめず、それから数週間ごとにR氏を尋ねました。同じスラックスにワイシャツ、クリップオンネクタイで(笑)。その都度オファー価格を上げ、頭金の額も5万ドル、6万ドル、6.5万ドル…とアップして。
売らないと言っただろ、出て行け、と怒られたり会ってもらえなかったりでしたが。
断られれば断られるほど気持ちが燃え上がってきて…。R氏の秘書の女性には、(携帯電話は持っていなかったので)うちのホテルの電話番号を教えて、何かあれば夜11時以降に電話してくれと伝え毎晩連絡を待っていました」
(さて、この熱烈なアプローチの結果は、果たして…? 後編に続く) (yn)