フランスには国が作った「移民宿舎」がある。1950年代から1960年代にかけての戦後の復興期に、植民地や旧植民地から出稼ぎに来た移民を受け入れるためにできた。外国人用なので、基本的にどの国の人でも入居できるが、実際、住民の多くは北アフリカやサハラ以南のアフリカから来た男性の単身者だ。
市長が宿舎の酷さをユーチューブに投稿
パリの東の郊外にあるモントルイユ市は、「マリの首都バマコに次ぐマリの都」と言われるほどマリ人が多い。筆者がよく行く店の近くに、アフリカ人男性がいつも通りに出て大勢で雑談している一角があった。それが「バラ通りの移民宿舎(通称『バラの宿舎』)」だった。
住民数は約400人。敷地内の中庭には店まで出て、一つの村のような雰囲気があった。ピアノ工場から1968年に宿舎になった建物で、2013年に、前政権の住宅大臣が「老朽化して危険なので2018年には取り壊し、新築する」と約束していたが、行政手続きに時間がかかったことと政権が変わったことで、無策のまま約束の期限が来てしまった。
2018年9月、自ら宿舎に出向いたパトリック・べサック・モントルイユ市長は、水漏でカビが生えた壁、腐って崩れ落ちた天井などを見てあまりの酷さに驚いた。そしてビデオに撮り、ユーチューブに投稿して「こんなところに住まわせるのは非人間的だ」と訴えた。部屋は10人部屋だったが、家賃を払っておらずベッドのない人たちは、床や廊下に寝ていた。
市の条例で国の建物を没収し、住人を移転させる
2018年10月、市長は、市内にあり2015年から空き家になっていた国の研修用建物を没収し、住民200人を移転させた。事前に「バラ通りの宿舎に住むことを禁じる条例」と「市が国の建物を没収する条例」を発布して、没収を合法化していた。けれども、移転したのは正規の滞在許可証を持っていた200人ほどだけ。引っ越すと身元確認の後、滞在許可証がないことがわかり、自国に強制送還されることを恐れる不法滞在者は移転したがらなかった。
新しい宿舎は近代的だが、泊まれるようにはできていなかったので、市がベッドやシャワーを設置した。市民からは食料や毛布、お金などの寄付があった。40年バラの宿舎に住んでいた住民組合長は「前に比べれば天国だ」と喜んだ。
政治家も文化人も市民もバラの住人を支援
ところが、県知事が市の条例は無効だと裁判所に訴えた。フランスの県知事は、日本のように選挙で選ばれるのではなく、政府が選ぶ官僚なので、国の意向を反映している。裁判に負ければ、住民たちは元の宿舎に戻るか、別の居住地を探さなければならなかった。フランスには11月1日から3月31日までは冬の寒さのため、どんな理由であっても住人を家から追い出してはいけないという法律がある。しかし退去命令が出れば、その期間の直前の10月31日に出なければならなかった。
そこで市と市民、著名人が動いた。バラの宿舎の元住人に適切な住居を提供することを要求する署名に、2019年ベネチア映画祭で主演女優賞を取ったフランス人女優などの文化人や、県会議長、国会議員、元大臣たちが名を連ねた。「国の建物没収」という無謀にみえる市の判断は人道的な理由で支持されたのである。
市と県知事の交渉の末、住人たちは国の建物に住み続けることができ、同年12月には不法滞在者も含め、全員が国の建物に移転した。フランスの老朽住宅は各地で問題になっている。10月に住人たちが国の建物に移転した数日後、南仏のマルセイユで、老朽化したアパートが突然崩れ落ち、死傷者が出る事件が起きた。これを考えると、バラの宿舎の住民たちは間一髪で難を逃れたのかもしれない。
住人は仮宿舎にまた移転
めでたしめでたし、と言いたいところだが、この話には続きがある。その後、国は住人たちが転入した建物を2024年から行政裁判所として使うため、市から没収することを決めた。住人のうち250人は、バラ宿舎の改築までの仮住まいとして国が建てた新築宿舎に移転したが、残っていた不法滞在者150人が2019年10月29日、県知事の命令で強制退去させられた。
彼らは、市内で放置されていた工場を無許可で占拠し、住み始めた。市はこれを黙認し、毛布やベッドを入れるなどの支援をしている。バラの宿舎は改築どころか取り壊しさえ終わっていない。元住人全員が新築の快適な宿舎で暮らせるようになるのはまだ先のことだ。
羽生のり子
1991年から在仏。美術、文化、環境、食、農業の分野で日本の媒体に寄稿する記者とヨガ教師の仕事をしている。パリ近郊に在住。フランスの環境、エコロジー系の2つの記者協会と文化遺産記者協会の会員。海外書き人クラブ会員。