海外トピックス

2020/7/1

vol.370 暮らしの視界にもっとアートを!ビル外壁を利用して街を美術館にする試み【アルゼンチン】

 前回、「vol.349 公共空間の新しい利用法と豊かな暮らしの提案【アルゼンチン】」でご紹介したアルゼンチン第3の都市ロサリオは、多くの芸術家を輩出した街として有名で、地方行政が特に文化面に力を入れていることで知られています。

 この町のコリエンテス通りを、街のシンボルであるパラナ川へ向かって歩いて行くと、トゥクマン通りとの角のマンションの外壁に、物憂げな眼差しを投げかけてくる少女がいることに気づくでしょう。アルフレッド・ギド(1892~1967年)の作品「バラの少女」です。

「La niña de la rosa(バラの少女)」Alfredo Guido画/Guillermo Turin Bootello撮影

 また、そこから数メートル先のパラナ川沿いの遊歩道から、サルヘントカブラル通りの緩やかな坂道を上ると、鮮やかな赤が印象的なフリオ・バンソ(1901~1984年)の作品「バンドネオン」がビルの壁面に姿を表します。

「Bandoneón(バンドネオン)」Julio Vanzo画/Guillermo Turin Bootello 撮影

 ロサリオ市内を歩くと、こうした印象的な壁画の数々に、あちこちの街角で出会うことになります。

芸術の街で始まった、人々のためのアート・プロジェクト

 『視界に芸術を~アーバン・ミュージアム~』と名付けられたプロジェクがロサリオ市役所のイニシアティブで始まったのは、2005年のこと。そのコンセプトは、町中に溢れる味気ないビルの外壁を利用し、ロサリオを代表する芸術家の作品を巨大な壁画として再現することで、人々が日常的に芸術に触れる機会を増やし、絵画が公共の記憶として残るようにしようというものです。

 プロジェクトディレクターであるダンテ・タパレリ氏はインタビューで「美術館にある絵は、ドアを閉められてしまえばもう見ることができない。芸術はしまい込めば忘れられてしまう。公共空間に蘇らせることで、これらの作品は誰もがいつでも見られようになり、人々のものになる。」と話します。

「Pausa(小休止)」Ambrosio Gatti画/Guillermo Turin Bootello 撮影

 壁画として描かれる作品は、全てロサリオ出身の画家のもの。また、この“都市美術館”は、あくまでも既にキャリアを築いて他界した芸術家のための“記念館“であり、若いアーティストたちのコンペテンションの場ではありません。

 作品選びの留意点は他にも、カンバスとなる壁の規格に合わせるため、横位置の絵画は使えないこと。また、プロジェクト開始当時は女性の肖像画が多く選ばれましたが、公共空間では色鮮やかな抽象画の方が、周辺空間に負けずに映えることなどを関係者も徐々に学んだと言います。描かれる絵が建物にアイデンティティを与えることになるため、作品のテーマと建物のマッチングも慎重に行われます。

「Mitoformas(ミトフォルマス)」Leónidas Gambartes画/Guillermo Turin Bootello 撮影

市役所、ビル管理組合、民間企業の共同作業による持続可能なプロジェクト

 一つの壁画を完成させるためには、壁の提供者と作品制作のための塗料、そして作業費用が必要です。壁を提供してくれるビルの管理組合やオーナーと、スポンサーとなる民間企業、もしくは市役所が壁使用の5年間の契約を結び、塗装作業費と維持管理費はスポンサーか市役所が負担します。塗料は民間の塗料メーカーが無償提供し、塗装業者は入札によって選ばれます。

 外壁を提供したビル管理組合の一つは、会議の場で初めて「屋根の雨漏り」や「エレベーターの故障」以外のテーマで熱い議論を交わしたと言います。それは、「ビルに描かれる絵はどの画家のどの作品が良いか」について。描かれる作品が自分たちのビルの個性となるのですから、誰もが完成した姿を頭に描きながら、熱心に、積極的に議論に参加したそうです。

「Cora(コラ)」Emilia Bertolé画/Guillermo Turin Bootello撮影

 塗料を無償提供している国内塗料メーカーのTersuave社は「文化的、芸術的、社会的プロジェクトに貢献できる意義は大きく、また、長期的に人目に触れる作品に使用してもらうことで、我が社の塗料の質を証明できる好機であると捉えている」とコメント。塗料メーカーにとってもこのプロジェクトは良質な広告の場となっているのです。

問題を乗り越え、市民に愛される新しい街の個性に

 当初は「街に2つ以上の壁画があるのは目障りではないか」等の意見もありましたが、実際に作業が始まり、足を止めてその工程を見つめる人々が増えていく中、多くの市民がこのプロジェクトを愛し、支持するようになったとダンテ氏は言います。

 例えば、塗装作業の現場で声を掛けられ話を聞くと、壁画の向かい側に建つマンション8階の女性に頼まれたというその人は、「8階のご婦人はお体が不自由で、長時間家にいらっしゃる。この壁画作業が始まり、窓から見えるつまらない景色ががらりと変わった。今では素晴らしい絵を毎日見られるようになったと喜んでいます。関係者の方に感謝の気持ちを伝えてとお願いされて」と言いに来たのでした。そんなエピソードはこれまでに数えきれないほどあったそうです。

「Sin título de la serie de tango(無題 タンゴシリーズより)」Julio Vanzo画/Guillermo Turin Bootello撮影

 とは言え、問題も山積みでした。例えば、記念すべき最初の壁画は、市内の老舗ホテルであるマジェスティック・ホテルの壁に、ロサリオを代表する画家アントニオ・ベルニの「肖像画」を再現しましたが、数年後には隣に新しいマンションが建設され、作品の半分が覆われてしまいました。

完成当初のアントニオ・ベルニの「Retrato(肖像画)」Guillermo Turin Bootello撮影
半分隠れた「Retrato(肖像画)」

 また、5年間の壁の貸出契約期間が終わると、ほとんどの場合が関係者全員の合意で契約更新となりますが、予算上の都合から、ビルオーナーが広告用に壁の貸しを決め、壁画を消さなければならないケースもありました。

 他にも、日照条件による壁の劣化や維持管理についてなど、幾つもの課題を乗り越え、多くの人々の協力を得ながら描かれた壁画は、現在市内に21か所あります。これらの壁画を歩いて見て回われるように、市では観光客に散策ルートを案内するなど、ロサリオを訪れる人々の目を楽しませる新しい魅力にもなっています。

「Los Emigrantes(移民たち)」Antonio Berni画/Guillermo Turin Bootello撮影

美術館に行く人は限られているけれど、街はみんなのものだから

 これらの壁画が生活に与える影響とはどのようなものでしょうか。私はこの街に住んで12年になりますが、バスが角を曲がった瞬間や、信号を見上げた時、突如として視界に飛び込んでくる美しい壁画には今でもはっとさせられます。建物ばかりのモノトーンな景色の中から、色鮮やかな絵画が現れる時のインパクトには、一瞬、現実を忘れさせる強い力があります。そして、こんな壁画とすれ違うことができた日は、何か特別な贈物をもらったような晴れやかな気持ちになります。

 こうして生まれた“絵画のある風景”は、今やロサリオを特徴づける街の個性として欠かせないものです。美術館に足を運ぶ人は限られていますが、街は誰もが行き交うところ。全ての人々の日常に溶け込んだ絵画は、このプロジェクトのコンセプト通り、「みんなのもの」であり、その作品は「市民の記憶」となっていつまでも残っていくことでしょう。

「Team de fútbol(サッカーチーム)」Julio Vanzo画/Guillermo Turin Bootello撮影

※【紹介動画】ロサリオ市役所制作の動画
https://www.youtube.com/watch?time_continue=73&v=suSa7z8go_U&feature=emb_logo


山本夏子

武蔵野美術大学映像学科卒業。日本語教師の資格取得後、エルサルバドル国立大学で教鞭を取る。米企業メキシコ支社勤務、JICAボリビア事務所勤務を経て、2008年にアルゼンチンへ移住。現在は子育て、日本語教育、翻訳、執筆業に従事。「ジュニアエラ」(朝日新聞出版)、「ちゃぐりん」(家の光協会)、「日経ARIA」「日系DUAL」(日経PB社)等でアルゼンチンの子育てや女性の生き方をテーマに記事を執筆、また複数のサイトでアルゼンチン情報を紹介中。「海外書き人クラブ」所属。

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